私りょうたは非モテである。
非モテである人生の過程において、非モテではない他の人に比べ、感じなくてよい生きづらさを感じて生きてきたと思う。
当ブログでは、親密な関係において問題意識や生きづらさをもつすべての人が自分のあり方を考えていける内容を紹介している。
ついては、一つの事例として私自身の抱えてきた生きづらさについて紹介し、皆様が自分のありかたを考えるヒントとしてもらいたいと思います。
目次
非モテと呼ばれる私を培ってきた生きづらさとは?
非モテという悩み。
はっきり言って非モテではない人からするとまったく共感できない悩みだろう。
素直に女性を抱くための行動にコミットすればよいし、自信がないから相手をいじることができないなんて彼らからしたらまったく理解の及ばない話だ。
彼ら。いわゆるリア獣にとっては。
普通のことが何でできんの?
この普通という概念が非常に難しいのが非モテの生きづらさの一つなのである。
彼らリア獣の言うこと、言外に響かすものを受けた我ら非モテはこう思う。
はたして本当に僕らは怠惰な人種なんだろうか?
こちらに私の幼少からの育ちなんかを簡単に記載するので、共通点などを感じてもらい、本当に自身が怠惰なのかを考えてもらいたい。
幼少のころから感じていた生きづらさ
1990年代当時。今では当たり前のように浸透しているあるものがブームとして広まった。
1992年。Jリーグ発足。
今でこそ当たり前のように生活に浸透しているサッカーだが、国内初のプロリーグ発足をもってブームとなり今日の文化レベルにまで発展した。
当時僕は幼稚園児。
何も知らない無垢な僕の掲げた夢はごくごく一般的な幼稚園児らしい夢だった。
Jリーガーになりたい
僕は父にサッカーボールをねだり、休日は父と公園でパスの練習をする。
父親としては子供が前向きに頑張ろうとしてるわけなのだから、全力で応えたくなるのは当然のことだろう。
もちろんサッカーブームは幼稚園にも広まる。
園児たちにサッカーボールが与えられ園庭でサッカーの試合が行われるのはごく自然のことだろう。
当然僕も父との練習の成果を見せたく、意気揚々と園庭に向かった。
実際にグランドに立ってみると、練習したような足遣いをどこに行けば披露できるのかがわからなかった。
もっと具体的に説明すると、どうすればボールのもとに集まって、パスをもらい、シュートができるのかがわからなかった。
子供のサッカーのイメージはわかるだろうか?
とりあえずみんなボールのもとにお団子のように集まる姿。
僕はそのお団子に集まるすべもわからなかったのだ。
お団子に集まってボールを蹴れる人間とそうでない人間。
たかだか5年ほどの人生の中でこのような差が出るのはどのような経験の差があったのだろうか?
もちろんその答え、そもそも問いを考えるような頭は当時の僕にはなかった。
結果として将来の夢がサッカー選手から普通の人に変わり、自宅にあったサッカーボールは2度と蹴られることはなくなった。
誰と走っても勝てなかった徒競走
僕は子供のころから背が高く大きな体をしていた。
きっと担任の先生もスポーツはできるのだろうと期待していたのかもしれない。
小学生なんて体格に大きな違いが出てくる。
だからだろう、僕は同じくらいの背丈の子供と一緒に競争をした。
結果は常に惨敗。
「大きな体をしてなんなんだ!」
期待が失望に変わった先生は僕とクラスで一番小柄な生徒と競争させた。
「これで負けたら恥と思いなさい!」
先生のプレッシャーが関係したのかといえばそうではないが、
結果として僕の目の前にはその小さな少年の後ろ姿がどんどん小さくなっていく光景が広がっていった。
僕はとても恥ずかしい気分になった。
初めて先生の言うとおりにできたのかもしれない。
初めての勉強
小学校に入る前は特に字を書く練習はしなかった。
これは多数派なのかはわからないが字を書くことと計算は小学校に入って初めて習うものという認識を僕はもっている。
余談だが、字の読みについては幼稚園のころから先んじてやっていた。なぜなら、買ってもらった昆虫図鑑を読みたかったから覚えたからだ。
別に深い理由はなく、僕の親は昆虫という興味の対象を広げるための手段として文字の読み方を教えただけだった。
字の練習というと「あ」なら薄いグレーの「あ」をなぞることから始めるのが一般的だろう。
バランスのとりかたをお手本をまねして覚える。
そんなこんなで授業で書いたうすグレーを先生に提出する。
かえって来たのは真っ赤な文字とレ点が並んだ僕の回答用紙だった。
僕は薄いグレーをうまくなぞるやり方がわからなかったのだ。
先生はなぞり方がわからなかった僕に対し真っ赤なお手本という回答解説をくれた。
もちろんこれで明日からきれいになぞれるほど僕は賢くない。
これでわかればこんな答案を提出はしないからだ。
こんな問題児に対し先生は放課後の時間という物量で対抗した。
帰りの会で「りょうた君は字が汚いので放課後居残り勉強です!」
とご丁寧にクラスのみんなに周知徹底を行い、僕が泣きたくなるまで「あ」をなぞらせ続けた。
勉強も運動もヨーイドンでスタートした小学校
勉強にせよかけっこにせよ、なぜか小学校の頃から優劣がついていた。
これが大人の話ならば別だ。何十年という人生のなかで努力というリソースにより大きく差がついてくるのは。
しかし、6歳そこいらまでの人生において努力の差ってどれだけつくのだろうか?
結局うまい身体の使いかたや、ペンを持つ手の動かし方を先生は教えてくれなかった。
少なくとも僕が理解できるやり方では。
ただ結果として、勉強や運動が6歳の子供に対し社会の求める水準に達していなかったから僕は劣等生になってしまった。
劣等生というレッテルを張られた僕
結局小学一年生の出来事から理解したこと。
それは自分は劣等生であること。
別に大した差ができるほどの努力をしていなかったわけではなかった。
でも自分と人の間には埋めようもない大きな差が顕在している。
ということは、僕は生まれつきどこかが変なんじゃないのか?
無意識ながらもそんな認識はすでにもっていたのではないかと思う。
徒競走では自身の身体能力を恥と思い、勉強では人より多くの学習を余儀なくされたわけなので。
だからおのずと自身にレッテルを張ることになってしまった。
劣等生というレッテルを。
僕が劣等生というレッテルを返上し始めたのはこの時から10年以上も先のことになった。
これまではずっと自分のことを、社会の求める水準に達しない問題児だと思っていた。
以上