りょうた塾長とは

生きづらさと向き合うには?

私りょうたの人生の大半は生きづらさとの拙攻が占めている。
以前の記事では、主に幼少期に受けた何ともしようもない生きづらさを紹介してみた。

非モテが感じる生きづらさも僕が幼少期から受け続けた生きづらさと近しい理不尽さがある。

こんな思惑から、生きづらさがいかに理不尽なものかを認識してもらいたく書いたのが↑の記事でした。

だけど、ただ理不尽に生きづらいと嘆くのが非モテハックではない!

そう、恋愛にせよ人生にせよ生きづらさを感じている人がどのように生きづらさと向かい合っていくのか?
これを考えていく場が非モテハックの本旨です。

今回は、僕が初めて生きづらさと向き合えたお話をしていこうと思います。

自分で張ったレッテルをはがすのは自分自身

周囲との差を見て僕が勝手に自分に張った劣等生のレッテル。
これをはがすきっかけになったのは高校の部活の時だ。

高校生は最後の部活のチャンス。
中学の頃はつまらないからとアーチェリー部を1年ちょっとでやめ、みんなが行かないからと4か月ほどでソフトテニス部の幽霊部員になった僕。

昔の紹介記事でも書いた通り、運動部への憧れをかなえる最後のチャンスとしてラグビー部へ入部しました。

もちろん今までろくにスポーツをやってないうえ、昔から運動に苦手意識のある僕はこのラグビー部でも劣等生でした。

「できねぇなら、甘えてないで頑張れよ!」
僕は同級生からも本気で怒られてしまいます。

ラグビー部なんて環境は厳しさの極致のような環境です。
できないのは当たり前でした。

ですが、これは僕に限ったことではありませんでした。
僕に厳しい言葉を本気でぶつけた同級生。

試合で負けた後はいつも大泣きしていました
できないのは僕だけではなかったんです。

優等生とか劣等生とかラグビーの世界ではまったく関係ありませんでした。
チームとして強ければ笑え、弱ければ蹂躙されて泣くだけ。

「同じことをしてどうして差がつくんだろうか?」
僕を長年生きづらくさせた差なんて小さな差でした。

別に優等生と自分で大した差があるわけではない。
ならばガムシャラにやってもよいわけだ。

勉強についても実は同じことが言えた。
確かに定期テストで赤点を取らないために僕は人より多くの努力が必要だった。
授業中騒いでいる生徒より悪い点数を見て悲しくなった経験もよくあった。

だけど難関大学に入るためには誰だって1日中自習室にこもる毎日が必要なんだ。
じゃあ劣等生も優等生も大した差はないのだ。

僕の両親が唯一子供に強要したこと

僕の両親は決して僕の結果に怒ることはなかった。
テストの点も、運動会のかけっこの結果にもまったく怒ることはなかった。

これだけ聞くと甘い親に育てられたんだろうと誤解されるかたもいるだろう。
僕の両親もちゃんと怒るときは怒る人だった。
ただそれが勉強とかの結果ではなかったというだけ。

僕の親が怒るときはたいてい決まっていた。

小3のマラソン大会。僕は300メートルくらいで棄権した。
頭が痛かったからだったかもしれないけど、本当はマラソン大会が嫌で嫌で仕方なかったからだ。
しかも棄権した後保健室を出た後教室に戻らず、大捜索をさせるというおまけつきだった。

校舎の屋上に至る階段の踊り場に隠れていた僕は先生に見つかった。
余談だが、この時の担任の先生は足の遅い僕に対し「恥と思え!」と罵った小1の担任とは違う先生でした。

この時の先生はとても良い人柄の先生で、
わけも分からず泣いている僕に対して、「恥ずかしくて出てこれなかったのかな?」
と優しく諭しました。
そんな優しい先生に連れられて両親と対面した僕に対し母が言った言葉がこれだ。

「ビリだってなんでも良い!だけど最後までやりぬかないとは何事だ!」
そう、僕の両親は途中で投げ出すことだけには非常に厳しかったのだ。

僕はなぜか小1の頃剣道を始めた。
はっきり言って剣道は厳しい。小手が生腕に入った時の痛さは当時の僕には戦慄ものだ。
(アメフトやってた大学くらいの僕が聞いたら臍で茶を沸かす弱さだけど。)
だからしょっちゅう親に言った。
「辞めたい」と。

小5小6になり中学受験で塾に通いだしても剣道だけは絶対につづけさせた
勉強しなきゃいけないからという言い訳は、何かを投げ出すのを許さない僕の親からしたら全くの戯言だった。

問題から逃げないこと

今30歳を超えた僕だけど問題はまだまだたくさんある。
仕事についてはやっと適正に比較的近い仕事とめぐり会えたので、あとはうまく頑張るだけ。

さんざん僕を非モテたら占めたこじらせ問題はやっと完結を見せている。
僕がどうしてもできない気遣いなんかは、相手を選んででも自分の培ってきたもので喜ばせる方向に行くことで妥結はしている。
そのほか非モテということで世間からみられる目線に対する恥ずかしさは、常に向き合うことで何とかしよう...。
後はうまいめぐりあわせしだいだろう。
だけどこの先の人生のパートナーは見つかる兆しはほとんどない。

僕は、普通の人に比べてする必要のない生きづらさを感じて、普通の人なら簡単に享受できる喜びを得れていない。

これは大変生きづらい人生なんだと思う。

小さいころは運動や勉強に問題を抱え、大人になっては仕事や親密な関係に問題を抱えて。
僕の31年の人生は常に問題意識との拙攻でした。

だけど、そんな問題だらけの人生において、問題から逃げずにいられたのは途中で投げ出すことを断固禁止した両親のおかげなんだと思う

逃げないことから見出した目標

僕はしばしば今回の記事のような内容を自分の中で回想したりする。
回想の舞台は大体小さなノートの中で。
今回はそんなノートの内容を記事にしてみました。

小さな過去ノートの役割は単純に過去を整理するだけの役割には終わりません。
整理した過去を紡ぎ合わせていくことにより、これからのあるべき姿が見えてくることがあります。

僕の場合。
問題だらけの人生において、今まで問題に向き合えたのは間違いなく両親のおかげでした。
他の何がダメでもいいから、逃げるのだけは許さないと。

こうなってくると見えてくるもの。
僕も家族を持ったら、こんな一貫した親になりたいということ。

やっと恋愛における目標が定まった気がします。

話は戻りますが、今までの自分のあり方を知るということは、これからのこうありたい自分をイメージするのにつながってきます。

今回僕は、僕自身の生きづらい人生を振り返ることで、ほかの生きづらさを感じる人に共感してもらいたいという目的の記事を書きました。
ですが、本旨としては生きづらさという問題意識をもつことと同時にこれからどうしていくかのサンプルとしてもらいたいということがあります。

どこかで生きづらい。
なんかモヤモヤ。

そんな言葉にならない気持ちを抱えるあなた。
非モテハックが言葉にするお手伝いをします。

いかがでしたでしょうか。

  • この記事を書いた人

りょうた”元”塾長

「元」非モテの塾長。30年を超える非モテ人生の果てに現在の彼女と出会い、当たり前な幸福を手に入れる。自身の非モテ人生によって培われた感性で恋愛について雑多に語る文筆家。

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